『医学節要集』杉山和一著(杉山流三部書)

江戸時代の鍼師・杉山和一検校が著した『杉山流三部書』のひとつ『医学節要集』(『医学節用集』)の原文の全文を掲載いたします。江戸時代の鍼灸治療の勉強用素材としてご活用ください。


 

杉山流三部書
医学節要集
総検校 杉山和一

 


◇ 目次 ◇
一、先天之事
一、後天之事
一、腹の見様之事
一、食物胃腑え受けて消化道理之事
一、三焦之事
一、井栄兪経合之事
一、五臓に五臭、五声、五色、五味、五液を主る事
一、脉之事

先天之事

夫れ人の身に先天の元気と云ふことあり。則ち腎間の動気なり。これを先天の元気と云ふことは、人の身未だ生ぜず五臓六腑そなはらざる先にうくる元気なる故、是を先天の元気と云ふ。
易に先天、後天と云ふこと有り。伏羲の易を先天と云ひ、文王の易を後天と云ふ。先天の易は河図かとより出でたり。河図と云ふものは五行初めて生づる次第を顕すなり。五行の生ずる次第は、天一水を生じ、地二火を生じ、天三木を生じ、地四金を生じ、天五土を生ず。地六水を成し、天七火を成し、地八木を成し、天九金を成し、地十土を成す。斯くの如く次第して五行の生ずるに最初に生ずるは水なり。是れ天地四方全く具はらざる以前の事なる故、是れを先天と云ふ。
『霊枢』経脉編に曰く「人初めて生ずるに先づ此性を為す」と云へり。人の生まるること父の一滴の水気、母の胎内に入りて此の水気根元と成りて漸々に五臓六腑一身五体生じて堅まるなり。此の水気はぢきに腎間の動気にて則ち先天の元気なり。人の五臓六腑未だ生ぜざる以前、最初に水生ずる故、天地と人と一理なるを以て是れを先天の元気と云ふ。人の身に限らず惣じて鳥、獣、魚、虫の類までも生ずる初めは皆水なり。能くかんがふべし。此の腎間の動気は腹にては臍の下気海丹田の所なり。故に越人の曰く「腎間の動気は臍の下に有りて十二経の根本、人の命綱なり」と『難経』に見えたり。又、『内経』刺禁論に曰く「七節の傍らに小心あり」と云へり。其の七節の傍らとは背骨の下の端より上え七つ目の節の傍らなり。大椎より是をかぞうる時は十四の椎の傍らに当たる。これ腎間の動気のつどひ発する所なり。然るに何れの書にも「腎間の動気を躍り動く所の動気なり」と論じたり。然れども腎間の動気を臍の下に於いて診るに分明に見えがたき人もあるものなり。然る時は何を以てか腎間の動気を知らん。爰を以て案ずるに腎間の動気を動き躍る動気とのみにては其の道理尽きざるなり。何んとなれば生々子の『赤水玄珠』に腎間の動気を論じて曰く「動は生元陽の動なり」とあり、此の意を考ふるに動くと陽は一体なり。然るときは腎間の動気は人の生ける陽気なり。其の生ける陽気は則ち腎中に有り。故に一身中の陽の根本は腎中の陽気なり。前に言ふ如く腎間の動気の事は生々子の輩に至るまでは古人も是を見分くること成り難し。故に腎間の動気を候ふこと詳らか知るといへども口伝なれば分明には伝へがたし。然れども大体臍の下に於いて腎間の動気を医師の手を以て診るに、先づ医師の気を鎮め、其の候ふ手と心と一体にして考ふる、則は知るべし。
さて腎間の動気は腎中の陽気にして人の生くる根本なり。故に其の腎中の陽気を云ふにたとへば、灯台に灯火有るが如し。灯火あるが如しとは、譬へば真ん中に火燭在る時は其の座敷明らかなり。油尠なくなるときは灯火自ら微かなり。微かなるときは其の座敷隅々より暗し。油竭きて灯火滅るときは其の座敷皆以て暗し。案ずるに病人も亦、斯くの如し。腎の臓の陽気不足せざるときは惣身つや有りて手足自らあたたかなり。陽気不足する者は惣身光失せて腹も空虚になるべし。故に死症に及ぶものは先ず手足より寒るなり。案ずるに、油不足して灯火微かなる時はその座敷隅々より暗しと云ふも、亦病人の腎の陽気不足して手足より寒ると云ふも同意なり。『難経』一の難に曰く「寸口の脉を採って生死を識り、最も寸口の脉絶するときは死する」と云う。何を以て言ふとなれば寸口の脉の有る所は手の太陰肺経の流るる所にして五臓六腑諸々の経絡の気のあつまりつだふ所なるが故に寸口の脉を取て生死を識る。又、「寸口の脉絶するときは死する」と云ふ。然れども六脉有りて死すること有り。是を案ずるに食する所の水穀の気暫くは保つ者なり。故に六脉あり。然れども元腎間の動気くる所に以てして死するなり。是を以て攷ふるに譬へば草木などを根を剪て水に挿すときは花瓶の裏にて開くことあり。是水気を受けて須叟しばらくは保つといへども終には枯るる。是れ根なきの故なり。人も亦斯くの如く、食物の穀気暫くは保つが故に六脉有りといへども終には死す。是れ腎間の動気竭くる故なり。其の陽気竭くると云ふは則ち草木の根の無きが如し。又、『難経』八の難に曰く「寸口の脉平なりといへども腎間の動気竭くる時は死す」と云へり。然るときは縦令寸口の脉絶すといへども腎間の動気竭きざるときは療治叶ふと見へたり。これを以て考ふるに油有りて灯火不意に滅ることあり。滅るといへども余所の火を以て是を灯すときは復た故の如く灯火おこるなり。寸口の脉絶すといへども腎間の動気竭きざるときは必ず死すと云ひ難し。灯火油竭きて滅るときは余所の火を以て灯すといへども叶はず。人も亦此の如し。腎の臓の陽気と云ふことは陰中に陽のある意なり。何んとなれば周易に坎の卦は水なり。則ち坎中連と云ひて上下の卦は陰にして離れて有り。中は則ち陽にして連なる。是陰中の陽に非ずや。茲を以て案ずるに腎の臓の性は水にして陰なり。然るときは腎間の動気を腎の臓の陽気と云ふことは其の理、博ふして明らかなり。 又『難経』に曰く「腎間の動気は臍の下に在りて人の性命十二経の根本なり」と云ひしは天一水を生ずるの道理なり。凡そ此の腎間の動気のことは医道の口伝なり。

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