新元号「令和」と『黄帝内経』

新元号が決まりましたね。「令和」綺麗な響きですね。今回は初めて日本の古典から採用との事で話題になっています。万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」から採用されたそうです。

天平二年正月の十三日に、師の老の宅にあつまりて、宴会をひらく。時に、初春しょしゅんれいげつにして、気く風やわらぎ、梅は鏡前きょうぜんひらき、らん珮後はいごこうかおらす。

令和の時代がよい時代になると良いですね。

梅の花

 
ところで、この「令和」という文字列が『黄帝内経こうていだいけい』にもでていると言う話を聞いたので、ちょっと『黄帝内経』を見てみました。
元号の漢字2文字なら、膨大な各種の中国の文献のどこかにある可能性は非常に高いでしょう。それが偶々東洋医学に関わり深い書籍だったので、ブログに書いてみます。
(補足)元号「令和」の起源が黄帝内経という意味ではありません。文字列探しの遊びです。

『黄帝内経』は東洋医学の原典といわれる書籍で、凡そ2000年ほど前の漢の時代に出来たといわれています。
『黄帝内経』は時代とともに『素問そもん』と『霊枢れいすう』という2つの書籍にわかれていきました。『素問』は基本的に東洋医学全般(生理学的なことなど)が書かれており、『霊枢』は『鍼経』ともいわれ鍼治療について主にかかれています。どちらも鍼灸治療と非常に関わり深い本です。
「令和」がどこにでてくるのかと探してみたところ、『霊枢』終始第九の最初のほうに出てきますね。以下に記載します。

<原文>
終始第九
凡刺之道.畢于終始.明知終始.五藏爲紀.陰陽定矣.
陰者主藏.陽者主府.陽受氣于四末.陰受氣于五藏.
故寫者迎之.補者隨之.知迎知隨.氣可令和
和氣之方.必通陰陽.五藏爲陰.六府爲陽.傳之後世.
以血爲盟.敬之者昌.慢之者亡.無道行私.必得天殃.

<書き下し文>
およそ刺の道は終始におわる。明らかに終始を知り、五藏を紀と爲し、陰陽定まる。
陰は藏をつかさどり、陽は府を主る。陽は氣を四末に受け、陰は氣を五藏に受く。
故に寫は之を迎え、補は之に隨う。迎を知り、隨を知りて氣和せしむべし。
和氣の方は必ず陰陽に通ず。五藏を陰と爲し、六府を陽と爲す。之を後世に伝え、
血を以って盟と為す。之をうやまう者はさかえ、之を慢にする者はほろぶ。道無くして私を行えば、必ず天おうを得る。

このような一節に出てきていました。ちなみにこれは、鍼の刺し方の「迎随げいずい補瀉ほしゃ」といわれることについて書かれている一節です。
※ここで原文が見れます→京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 『黄帝内経霊枢』

以下に、現代語への意訳を追記しておきます。(適当に訳してますので、参考程度にお願いします。)

<意訳>
刺鍼の方法の要点に「終始」があります。「終始」を理解し、臓腑と陰陽の関係を明確にしましょう。そうすると、陰の経脈「陰経」は「臓」、陽の経脈「陽経」は「腑」と関連しているということがわかります。
ここで、経脈の気の流れには以下の特徴があります。
⚪︎陽経は四肢末端から気を受けて流れている。
⚪︎陰経は臓から気を受けて流れている。
この気の流れに着目した補瀉の方法があります。(補法:正気を補うこと。瀉法:邪気を抜くこと。)
⚪︎瀉法を行うには、上述の気の流れの逆向きに鍼を刺す。これを「迎」という。
⚪︎補法を行うには、上述の気の流れに沿って鍼を刺す。これを「隨」という。
この「迎」と「隨」を憶えておけば(乱れている)気を調和させることができます。
この気の調和の方法(迎隨の補瀉)を運用すれば、必ず、陰の五臓・陽の六腑の経脈の気の流れを整える事ができるでしょう。
この知識は重要なものなので後世に伝える際にはしっかりと盟約を結んだ上で伝えなさい。この知識を敬い真剣に取り組んでいく者は栄え、あなどり疎かにする者は滅ぶでしょう。正しい方法でなく独自の方法を行っていると医療過誤をまねく事になります。

『黄帝内経』は面白い文献ですので東洋医学に興味のある方は是非読んでみて下さいね。

また、『黄帝内経太素たいそ』という本にも、「令和」という文字列が登場します。
『黄帝内経太素』は唐の時代に楊上善という方が著した『黄帝内経』の注釈書ですが、大陸では早くに失われてしまいました。しかし、この本は遣唐使が日本に伝えており、幸いにして日本に残っていたため現代まで伝わっています。

それでは『黄帝内経太素』のどこに「令和」という文字列が出てくるかを以下に記載します。

巻第三 陰陽
調陰陽のやや前のほうの注釈

此之失者、皆是自失将攝、故令和氣銷削也

※ここで原文が見れます→京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 『黄帝内経太素』52

巻第十四 診候之一
人迎脉口診 の中ほど

脉急則引 引挽也 寸口脉急可以針導引令和

脈診について記載している文章の中の注釈のひとつです。これも鍼に関するものですね。
※ここで原文が見れます→京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 『黄帝内経太素』336

もう少し先には、前述した、『霊枢』の内容とほぼ同じもの(後が後に変わっただけ)が、あります。そのため、そこにも「令和」が登場します。
※ここで原文が見れます→京都大学貴重資料デジタルアーカイブ 『黄帝内経太素』339

巻第二十二 九鍼之二
五邪刺 の終わり近くの注釈の中に以下の記載があります。

熱既聚於肩項、欲令和之、故熨使下也

※この巻は残念ながら京都大学には無し。

以上、『黄帝内経太素』には四回も「令和」が出てきます。

このように、『霊枢』と『太素』あわせて五箇所で「令和」が登場しました。

偶々ではありますが、こんなに多く現れているので鍼灸業界にとって吉兆だとおもっておきます。
令和」時代が良い時代になることを期待しています!
 
 


『黄帝内経』の歴史 簡易メモ

(漢の時代)『黄帝内経』が成立 『漢書』芸文志に記載あり
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『素問』と『鍼経』にわかれる?
(西晋の時代)皇甫謐(215-282)が『針灸甲乙経』の序で『素問』と『鍼経(霊枢の別名)』とが『黄帝内経』にあたる旨を記載し、これが定説となる。

『素問』
(南北朝時代)五世紀末 全元起(生没不詳)が注解
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(唐の時代)762年 王冰(710?-805?) の改訂および注解
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(宋の時代)1069年 林億(生没不詳)らにより校訂され出版される

『霊枢』
『鍼経』『九巻』『九霊』などともいわれていた
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(宋の時代)宋の国内では散逸していたため、高麗より写本を入手し1093年に出版される

『太素』
(唐の時代)7世紀前半に楊上善(585-670)が『素問』『霊枢』をもとに再構成と注解をおこなったもの
8世紀前半頃?遣唐使が日本に持ち帰る
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(宋の時代)宋の国内では散逸していたため出版できず
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江戸時代に仁和寺に保管されていたものが再発見される

※印刷技術が向上したため宋の時代に多くの医学書が改訂出版された(宋改)。現代まで伝わる医学書の多くがこの時に出版されたものの系譜。
 


【改訂履歴】
 2019.04.01 令和と黄帝内経霊枢について記載
 2019.04.03 令和と黄帝内経太素についての記載を追加
 2019.04.04 追加部分をまとめ、黄帝内経の歴史メモを追加
 2019.04.21 霊枢・終始篇の抜粋部の意訳を追加
 2019.04.23 意訳を一部修正